長崎街道は砂糖の道
九州で郷土菓子に興味を持った者が、避けて通れない道があります。
それは、砂糖の通った道、シュガーロード。
長崎から小倉までの228km、25の宿場を通る長崎街道のことです。
鎖国中の江戸時代、唯一外国との窓口だった長崎から、西洋の文化や新しい技術が長崎街道を通って、京や江戸へと運ばれて行きます。
その中には、砂糖やお菓子もありました。
長崎や長崎街道沿いは、砂糖や外国のお菓子作りのノウハウが流通しやすく、独特の菓子文化が発達していったのです。
ポルトガル、オランダから伝わったお菓子は、カステラや丸ぼうろ、金平糖などのような南蛮菓子として日本独自の進化をし根付いていきました。
一口香や饅頭など、中国から伝わったお菓子もあります。
日本を代表するお菓子メーカー、グリコ・森永の創業者がどちらも佐賀出身というもの大変興味深いです。
南蛮貿易の歴史
九州のお菓子を楽しむにあたって、ちょっと面倒くさいけど、鎖国や南蛮貿易の歴史は抑えておきたいと思います。
シュガーロード沿いでは独特の菓子文化が繁栄、鎖国の前にオランダ商館があった平戸では南蛮菓子、キリシタンの多かった天草・島原や豊後(大分)でもキリシタンにちなんだお菓子をよく見かけます。
1543年(室町時代)、初めての西洋人(ポルトガル人)が種子島上陸。
1549年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航。
その後、スペインやポルトガルの宣教師がキリスト教を熱心に布教。
織田信長は、反抗的な仏教徒への対抗馬として、また、南蛮文化・貿易を取り入れたくてキリスト教を容認したといわれています。
1571年(安土桃山時代)、南蛮貿易の港として長崎開港。
ポルトガルの貿易船は1550年以来平戸に来航していましたが、いろいろあって長崎へ。
特にキリスト教徒の数多かったのが、九州の天草・島原地域、キリシタン大名大友氏が治める豊後、そして畿内。その分布は圧倒的に九州に偏っていました。南蛮貿易からの恩恵を受けられる地域で受け入れられやすかったのでしょう。
豊臣秀吉は織田信長の政策を継承し、キリスト教を容認していましたが、長崎がイエズス会領となりキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られていることを知らされます。
また、長崎が南蛮貿易で潤って力をつけるのにも危機感をもっていたようです。
1587年バテレン追放令:豊臣秀吉は、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書を発令します。
1596年サン=フェリペ号事件:スペインの船が土佐に流れ着き、スペイン人と日本人の間でごちゃごちゃやっている中、スペイン人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。その土地の民を教化し、兵力化して征服する」と言っちゃいます。
キリシタンに対する迫害が本格的に始まります。
1637年島原の乱:百姓の酷使、過重な年貢負担、キリシタンの迫害、飢饉に苦しむ百姓が起こした一揆。これが幕府に鎖国を踏み切らせました。
1639年ー1854年鎖国:ポルトガル船入港禁止から日米和親条約締結まで、幕府がキリスト教国の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限しました。
長崎
「長崎の遠か」
長崎では、料理や菓子の甘み(砂糖)が足りない時に言われていたそうです。
長崎=砂糖、という認識だったのが伺えます。
長崎市
カステラ
ポルトガル人から伝えられて400年、改良をかさねて今日に至る。
桃カステラ
中国で不老長寿の果物とされる桃を砂糖細工であしらい、カステラの上にのせたザ・和洋折衷なお菓子。
口砂香
唐人屋敷が建造される前、町宿の唐人より「お梅さん」という方が習い伝えたと言われている。粳米を煎った粉と砂糖を混ぜて型打ちした落雁のようなお菓子。
ざぼん漬
中国から伝わった柑橘系の果実、ざぼんの砂糖漬け。
1694年、「菓子蜜漬屋敷」が建てられ、幕府献納用の菓子が中国人の指導で作られていました。
出島
1636ー1859年(江戸時代)の218年間、唯一外国に開かれた窓として大きな役割を果たしてきました。
日本初の本格的な人工島でしたが、明治以降、長崎港の港湾整備に伴う周辺の埋立等により陸続きとなり、当時の面影は失われました。
1636年~1639年 対ポルトガル貿易
1639年 ポルトガルとは断交
1641年 平戸のオランダ東インド会社の商館を出島に移す
1641年~1859年 オランダ東インド会社を通して対オランダ貿易が行われる
三番蔵は、砂糖の倉庫。
中では砂糖袋が積み重なり、お菓子文化の説明なんかもあります。
周囲は埋めたれられ、出島感の薄さにびっくり。
長崎街道の始点
え、出島じゃなないの?と思ったのだけど、新大工商店街の端に石碑があるんです。
近くに平井餅まんじゅうという評判のいい饅頭屋さんがあるんですが、私が行った時は定休日。あ~残念。
ちなみに、さだまさし原作の映画『解夏』で出ていた和菓子屋さん(ロケ地)、いしだや万寿庵も近くにあります。
唐人屋敷跡
中国人は、はじめ長崎市中に散宿していましたが、密貿易が増加したため徳川幕府は、1689年、中国人を収容する唐人屋敷を建設します。
179年続き、1868(明治元)年に解体されました。
長崎新地中華街
唐人屋敷が解体された後、中国人たちが移り住み中華街となりました。
唐船専用の倉庫を建てるために埋め立てられた新地で、東西南北全ての入り口に中華門が立ち、縦横あわせて約250メートルの十字路で、通りには中華料理店等が軒を連ねています。
オランダ坂
この辺りは開国後の外国人居留地でした。
当時の長崎の人々は、欧米人を「オランダさん」とよんでいたことからこうよばれるように。
諫早市
諫早おこし
おこしは、平安初期に渡来した唐菓子の一種で、街道を行き交う旅人の携帯保存食として愛用されていました。
米処であった諫早では、良質の米と砂糖が結びつき、おこしが作られるようになりました。
固める前に黒砂糖を混ぜるのが特徴です。
また、街道沿いの唐津には「松原おこし」があります。
大村市
大村寿司
魚・野菜などの具をご飯の上に乗せ、木箱に詰め、最後に錦糸卵を散らして上から押して作った砂糖多めの押し寿司。
1474年、大村領主が戦勝の祝いに、領民にふるまったのが起源といわています。
兵児葉寿司おこし
米を蒸してから乾燥させ、それを煎った後に黒砂糖と水飴をまぜて作ったおこし。中国のお坊さんから教わったと言われ、今でも当時と同じ製法が用いられています。
兵児葉寿司おこし本舗:1679年(延宝7年)創業。
旧松屋旅館
江戸時代は休憩所、明治~昭和40年まで旅館として使用され、現在は改修を経て、地域情報発信の場として活用されています。
佐賀
陶磁器の産地である佐賀には、ポルトガル伝来の砂糖菓子と飴細工を組み合わせた「寿賀台」という菓子があります。
嬉野市
寿賀鯛金花糖(寿賀台)
昭和30年代頃まで、結婚式におけるウエディングケーキのようなものだった。
逸口香
中国より伝来したお菓子。
江戸で流行した駄菓子で、中が空洞、皮の内側にはねっとり黒糖がはりついた「ごまかし」(胡麻菓子)。
塩田津の町並み
宿場町として栄え、通りには今も白壁の大きな家々が立ち並びます。
有明海の干満の差を利用した川港「塩田津」があり、物資の集散地でした。
小城市
小城羊羹
小城は、原料となる小豆や水、茶道など、羊羹が受け入れられる下地がありました。
桜の名所であったことから、小城羊羹は「櫻羊羹」からはじまったともいわれます。
佐賀市
あめがた/のんきー
水あめを煮詰め、白くなるまで何度も引き伸ばして切り分けたもの。切り分ける形によって呼び名が変わり、長方形に薄く切ったものを「あめがた」、棒状のあめをノミで一口サイズに切り分けたものは「のんきー」と呼ばれます。中国に起源を持ち、砂糖の伝来よりも古い歴史があるとも推測されています。
中原製菓 のんき飴
丸ぼうろ
白砂糖、麦粉、胡麻油、唐汁のみで作られた硬いお菓子で、船員たちの保存食でした。
19世紀頃になって卵が使われるようになり、アレンジが進み、現在のような味、形になりました。
福岡
飯塚市
長崎街道の宿場町で、たくさんの有名菓子が生まれているけど、今あるここのお菓子たちはちょっと時代が違うかな、と思うので、「炭鉱の町のお菓子」として、別途書きたいと思います。
北九州市
金平糖
小さい頃はよく見かけていたコンペイトウだけど、昔ながらの作り方だと2,3週間かかる手間のかかるお菓子。
今では、日本中を探しても金平糖を作っているお店は少ない。
1934(昭和9)年創業、入江製菓。
長崎街道の起点・終点、小倉の常盤橋。
福聚寺(ふくじゅじ)
開山は福建省出身の中国僧、小笠原家の菩提寺。
江戸時代、小笠原家の御用菓子師が唐饅頭(餡をカステラ生地で包んだ焼き饅頭)を納めていました。
木屋瀬宿
江戸時代以前から遠賀川の舟運で栄えた長崎街道の宿場町。
今も古い町並みが残り、当時の雰囲気が感じられます。
長崎街道木屋瀬宿記念館には、宿場にまつわる資料などもあり、当時の様子を知ることができます。
シュガーロード外の南蛮菓子
平戸 カスドース
福岡 鶏卵素麺、派生で鶴の子
松山 タルト
岐阜県岩村 岩邑かすてぃら
こちらも今後調べてみたいお菓子たちですな。